こうのす市民活動情報サイト活動報告健康・福祉いきがい大学蕨学園26期ぶらり散歩同好会16名が「鴻巣宿」を歩く

いきがい大学蕨学園26期ぶらり散歩同好会16名が「鴻巣宿」を歩く

公開日:2022年09月28日 最終更新日:2023年07月20日
タイトル
いきがい大学蕨学園26期ぶらり散歩同好会16名が「鴻巣宿」を歩く

詳細

開催日:令和4年9月21日(水)10時~14時
団体名:彩の国いきがい大学蕨学園26期ぶらり散歩同好会
参加者:16名(内 女性12名)
ガイド:4名(2班に分かれて案内)
コース:鴻巣駅 ⇒市民活動センター・鴻巣御殿模型 ⇒鴻神社 ⇒法要寺 ⇒本町交差点脇の旧中山道説明板 ⇒本陣跡 ⇒勝願寺 ⇒小山屋食堂(昼食12:30~)⇒鴻巣御殿跡 ⇒エルミSM(鴻巣の土産物購入)⇒ バスターミナル脇で「昔話」読み聞かせ 終了
        (報告:熊谷)

鴻巣市民活動センターに展示されている「鴻巣御殿模型」を囲んで説明。文禄2年(1593)、徳川家康によって鷹狩や領内視察などの宿泊や休憩所として建てられた。秀忠、家光の三代にわたって利用された。

中山道に面した「鴻神社」。明治6年に氷川社、熊野社、雷電社の三社を合祀して「鴻三社」と号し、村社となる。更に明治35年~40年にかけて東照宮ほか無資格社を合祀して「鴻神社」と改めた。

本殿前で1班の皆さん。「鴻巣」の地名については3つの説があるが、その1つに「こうのとり伝説」がある。コウノトリが大木に巣をつくり卵を産んだところ、樹の神の大蛇が卵を呑もうとしたので、コウノトリがくちばしで大蛇を突き殺した。

「法要寺」山門前で1班の皆さん。法要寺は真言宗深井寿命院の末寺。屋根瓦には加賀前田家と同じ梅鉢紋が入っている。

2班の皆さん。梅鉢紋は、慶安(1648~1652)の頃、加賀前田候が参勤交代の帰路、宿所として法要寺を利用した際に許されたもの。

「深井景周」の碑。三河国の生まれ、江戸で柔術を学び奥義を得、鎖鎌の術もよくした。深井家に入婿し深井勘右衛門を継いだ。邸内に道場を作り多数の門弟を指導した。

彰義隊関弥太郎の墓。明治維新の際、彰義隊士として上野の山で戦った徳川直参の旗本。敗戦後は榎本武揚らと五稜郭で抗戦した。明治9年頃より鴻巣に居住し、名も岡安喜兵次と改め、長唄の師匠をしていた。

法要寺鐘楼前に植樹された「兼六園のヤマモミジ」。前田家との縁で、石川郷土史学会から寄贈された。なお、鐘楼が石川県洲珠市のケヤキで建てられた縁で、珠洲市から「キリシマツツジ」も寄贈された。

中山道鴻巣宿「本陣跡」(写真の右側)の説明、向かい側に荷物の積み替え等を行った「問屋場」、その右に「高札場」があった。

浄土宗「勝願寺」の惣門前で、2班の皆さん。明治15年の大火で鴻巣宿の街並みの大半は消失したが、この惣門のみ焼け残った。下部の焦げた部分は切断したとのこと。

「山門」、明治15年(1882)の大火で消失したので、大正9年(1911)に再建したもの。両脇の仁王様(江戸時代作)は、大正9年11月に三峰神社から譲り受けたもの。

「真田小松姫の墓」。小松姫の父は本多忠勝。家康の養女となり真田信幸の妻となる。墓の左隣には小松姫と同様に鴻巣で病没した三男信幸と正室の墓、小諸城主仙谷久秀の墓もある。

昼食は、小山屋食堂で名物の「川幅うどん」を食べる。その後、「鴻巣御殿跡」に立ち寄り、エルミショッピングモールで鴻巣名物の「いが饅頭」などを買うが、瞬く間に売切れとなってしまった。

エルミ前のバスターミナルの隅で、馬室地区に伝わる昔話『龍神になった奥方様』を語り、いきがい大学蕨学園OBの皆様に聞いていただいた。落城した蕨城の城主の奥方が、榛名湖に身を投げ龍神になった。

中山道を歩いて来る途中、鴻巣で大嵐に会い、馬室の西光寺に数日世話になった。そのお礼に、馬室地区に雹が降らないよう守ってくれた、というお話である。蕨にも、同様な伝説が残っているようである。

この情報は、「観光ボランティア鴻巣ガイド会」により登録されました。

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