こうのす市民活動情報サイト活動報告教育・文化鴻巣歴史再発見ツアー新コース:『荒川・自然と共に生きる小谷』を歩く

鴻巣歴史再発見ツアー新コース:『荒川・自然と共に生きる小谷』を歩く

公開日:2021年06月27日 最終更新日:2023年07月20日
タイトル
鴻巣歴史再発見ツアー新コース:『荒川・自然と共に生きる小谷』を歩く

詳細

開催日:令和3年6月17日(木)
目 的:鴻巣ガイド会 会員研修会
参加者:21名
交 通:鴻巣駅西口から北鴻巣駅行きフラワーバス8:45発に乗り、上新田で下車。集合場所の小谷小学校東門へ。5名は現地集合した。「小谷班」が説明と案内役を務めた。
1番の「小谷村史碑」からスタート。説明者は村井ガイド。後方は、明治5年((1872)に開校の歴史を持つ小谷小学校、4階建ての立派な校舎である。

「小谷村史碑」は小学校運動場の前にあるが、ここは旧小谷村役場があった場所。旧小谷村は明治22年(1889)に前砂村、明用村、小谷村、三町免村の4村合併により誕生した。

小谷村役場跡から五反田河岸跡に向かう途中に、歴代村長10名中3名の自宅があるが、最後の村長宅前では当主の小林茂さん(右側)にお会いした。資料収集でお世話になっている。

「五反田河岸」に通じる道が見える荒川土手上で、大正時代の五反田河岸の絵を掲げて説明する長谷川ガイド。寛永2年(1625)に五反田に問屋が設けられ忍藩の外港として栄えた。

「小谷城址」、小谷城は延徳3年(1491)頃、忍城の出城として造られた。敵の急襲から守る一時的防御陣地としての「砦」程度の平城。忍城の開城と共にすたれ、荒川流路付替えにより、集落は堤内に移った。

荒川堤防から見たウイスキー工場。元は明治13年(1880)に小谷村の村長長島其吉が建設した「小谷製糸工場」があった。明治43年(1910)~大正12年(1923)頃が最盛期で、約300人の従業員がいた。

「光酒造鴻巣蒸留所」はまだ公開されていないが、特別に見せてもらった。右が工場で左が貯蔵庫。熟成中のオーク材樽がたくさん保管されていた。販売は2025年ころとのこと。鴻巣の観光名所になるであろう。

小谷の「日枝神社」、村の鎮守で昔は「山王社」と呼ばれていた。最近、ものつくり大学の調査で、彩色された彫刻で本殿の四方が飾られていることが分かった。

日陰に入って説明を聞く。本殿の彫刻は、正面に竜、側面や背面に布袋・大黒・七福神などが彫られている。すごろく遊びの彫刻は、妻沼の聖天堂とモチーフが共通している。

「長島家の墓」、閻魔堂に隣接する墓地に、製糸工場を開業した長島其吉とその父・甥などの墓がある。長島家は小谷村の村長、衆議院議員を輩出するなど、小谷村の名家である。

「閻魔堂」、明治3年に廃寺になった焔魔寺の敷地跡に長島家が管理する閻魔堂がある。焔魔寺は、江戸時代から明治の初めまで小谷村の寺子屋で、その師匠は代々金乗寺の住職がつとめていた。

「金乗寺 コンジョウジ」、新義真言宗智山派の寺で、吉見町御所の息障院末寺。寛永6年(1629)の荒川瀬替により、寛永9年に当地に移った。宝永年間(704-9)以後の住職は、郷党子弟の教育に大きな貢献をした。

「筆子の墓」、寺子屋で学んでいた教え子たちが建立した「筆子の墓」が、金乗寺歴代の墓所に並んでいる。明治5年、この焔魔寺の寺子屋は「小谷小学校」に名前を変えており、小谷小学校発祥の地でもある。

「宝勝寺」、禅宗曹洞宗の寺で、箕田宝持寺の末寺。寛永2年(1625)の開創、開基は小谷城主の小宮山弾正。寛永9年、現在は荒川堤外地になっている「鐘塚」から当地に移転した。寺子屋師匠の筆子碑がある。

「冬水たんぼ」、環境に優しい農業として、稲刈後12月から3月までの間、田んぼに水を張る。平成28年(2016)11月に8羽のオオハクチョウが飛来し、5年連続で来た。コハクチョウは毎年飛来している。

「御神道 オカンドウ」、中山道の中宿橋(武蔵水路に架かる橋)の上手100m左に、嘉永7年(1854)に建立された「吉見大神道』と刻まれた高さ2m、厚さ40cm角の石の道標が立っていたが、いまは三つに折れて置かれている。

この情報は、「観光ボランティア鴻巣ガイド会」により登録されました。

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