彩央会の皆さんが「神々の住む馬室の郷」を歩く
公開日:2021年10月31日 最終更新日:2023年07月20日
タイトル | 彩央会の皆さんが「神々の住む馬室の郷」を歩く |
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詳細
●日 時:令和3年10月20日(水)8時30分~15時40分 |
主催者の彩央会の信末副会長が挨拶。「彩央会」は、彩の国いきがい大学伊奈学園を卒業したOBの地域活動団体で、主に桶川市・北本市・鴻巣市に在住。会員は115名。 |
鴻巣ガイド会の熊谷会長が歓迎の挨拶と「馬室の郷」の紹介をする。 |
3班に分かれて「氷川神社」の説明。延歴年間(782~806)に坂上田村麻呂が悪竜退治をした故事にちなみ、毎年1月12日に「的祭」が行われている。 |
荒川方面を望みながら、東京を水害から守るために横堤(鴻巣から吉見に通じる道路)が築かれた経緯を説明。この地点が「川幅日本一」となっている。 |
良く晴れていたので、広大な荒川低地の先に、雪を被った富士山が見えた。 |
「常勝寺」、真言宗智山派の総本山京都智積院の直末。関東に入国した徳川家康から、15石の朱印状が出された。源範頼の正室亀御前の「常燈明供養塔」がある。 |
当地滝馬室出身の政治家「加藤政之助翁」の墓前で経歴を紹介。慶応義塾を卒業後、新聞記者、埼玉県会議員、衆議院議員を経て昭和2年に貴族院議員に勅任された。 |
「谷津不動尊」、享保15年(1730)村内安康万民豊楽を祈り、中島一族の守り本尊として祀られた。平成6年2月火災で全焼。翌年に新築。 |
荒川に架かる冠水橋に通じる農道。右側に冠水橋架設記念碑と水神宮がある。 |
足立15番札所「観音堂」は、埼玉県指定無形民俗文化財の「原馬室獅子舞と棒術」の発祥地とされている。獅子舞は、天正2年(1574)に、二人の田楽師が舞を伝授したという。 |
新型コロナウイルス退散を願って、笛方の古老が「祈祷の舞」の曲を吹いて聞かせてくれた。参加者のアンケートで、人気No.1となった。 |
「妙楽寺」、応永年間(1394 ~1428)に山内上杉安房守憲方公の菩提を弔うために、鎌倉建長寺塔頭明月院惠範が開山(臨済宗)。延命地蔵尊を本尊とする。天正年間に真言宗常勝寺の末寺となった。 |
原馬室「雷電社」、明治政府が作成した「神社明細帳」に、「境内は官有地で、信徒50人」と記載され、原馬室「愛宕神社」に合祀すべしとされたが、明細帳の記載は間違いであるとの訴えをし、明治40年に認められて、合祀を免れた。 |
古墳時代後期の「馬室埴輪窯跡」。荒川を望む崖の斜面に、10基以上の埴輪窯跡が確認され、台地上には埴輪工人の集落も確認されている。昭和9年に、埼玉県指定史跡に認定された。 |
原馬室の鎮守「愛宕神社」。長治2年(1105)の創立と伝えられている。正慶2年(1333)に新田義貞が挙兵した際には、家臣の世良田利長が社頭に利剣を収めて戦勝を祈願した。 |
「渋沢栄一の書」が、愛宕神社の集会所(現在は保育園として使用)壁面に掛けられていたが、いつ・誰がここに掛けたかは不明。『共同一致 已巳元旦 九十翁青渕書』と書かれている。昭和4年元旦、九十歳の時の書である。 |
小松の「大日堂」は、広大な墓地である。入って左奥に、江戸時代の石仏が数体残っている。新編武蔵風土記稿には「大日堂」の名はなく、明治3年の寺社分離統合の際に廃寺となった『受法院』がこの地にあり、その大日堂であると推測した。 |
旧小松原村の村社「小松原神社」。この地内には上・中・下の3つの組があり、上に愛宕神社、中に稲荷社・下に別の稲荷社があったが、明治2年に新政府の達しに従い、中組の稲荷神社に他の2社を合祀し、小松原神社と改称した。 |
山伏寺「小松山 瀧本院」跡。真言系の修験である当山派では、小松原に所在した瀧本院が触頭として16ケ寺を擁し、大きな勢力を持っていた。しかし、明治政府により修験道は禁止され、廃寺となった。個人宅に多くの書状と庭先に「慧慶翁壽碑」が残るのみである。 |
「原馬室の一里塚」(西側)。この一里塚は、江戸時代初期の中山道に築かれたものでその後、道の付替えによってそのまま残された。東塚は明治15年(1882)に高崎線の線路施設により大部分が取払われ、昭和5年完成の複線化で消滅し、西塚のみ残った。埼玉県指定史跡。 |
約7kmの道を歩き、フルコースの最終史跡「馬室の一里塚」にたどり着いた2班の皆さん。お疲れさまでした。後10分でゴールの北本駅西口に到着する。 |