こうのす市民活動情報サイト観光ボランティア鴻巣ガイド会活動報告教育・文化10月4日に鴻巣歴史再発見ツアー⑫『荒川・自然と共に生きる小谷を歩く』開催

10月4日に鴻巣歴史再発見ツアー⑫『荒川・自然と共に生きる小谷を歩く』開催

公開日:2022年05月26日 最終更新日:2023年07月20日

タイトル 10月4日に鴻巣歴史再発見ツアー⑫『荒川・自然と共に生きる小谷を歩く』開催

詳細

日時:202年10月4日(月)8:30~12:50
集合:吹上・小谷小学校東門
天候:晴れ 日中気温29℃
参加者:51名、ガイド会員:26名、合計:77名、班編成:4班
コース:小谷村史碑→五反田河岸跡→小谷城跡→日枝神社→閻魔堂・長島家墓地→金乗寺→宝勝寺→製糸工場跡→冬水田んぼ→御神道→北鴻巣駅(最終班到着12時40分)

←五反田河岸図‐大正時代‐
水運の盛んな頃、ここに問屋や渡し舟業の他お茶屋まであって、江戸方面より船で運ばれてきた荷物が陸揚げされ、出入りする商人で賑わっていた。昭和59年11月、井上毅 画

吹上・小谷小学校東門前で、受付の準備をするガイド会員

村史碑の前で「旧小谷村」の歴史を説明。小谷村は、明治22年(1889)に前砂村・明用村・小谷村・三町免村の4村合併により誕生した。

 一班の皆さん

 二班の皆さん

 三班の皆さん

 四班の皆さん

 荒川土手方向に歩き始める

土手の上から「五反田河岸:現在は吉見ゴルフ場」方面を望む

「大正時代の五反田河岸図」で、当時の河岸の様子を説明。寛永2年(1625)に吉見側に問屋が設けられ、忍藩の外港として栄えた。

「五反田河岸家屋図」には、小谷側に7軒、吉見側に15軒の家が記されている。医師・問屋・渡し舟業の他、置屋(エノキヤ)まであった。

新しく出来たウイスキー工場で、名称は「光酒造鴻巣蒸留所」。元は明治13年(1880)に小谷村の村長の長島其吉が建設した「小谷製糸工場」があった。

「小谷城跡」付近の見取図で、城の役目や城内の配置等を説明。小谷城は延徳3年(1491)頃、忍城の出城として造られた。敵の急襲から守る一時的防御陣地の砦程度の平城。

「日枝神社」の本殿は、四方が彩色された彫刻で飾られていることが最近判明した。「すごろく遊び」の彫刻は、妻沼の聖天堂とモチーフが共通している。

日陰で「日枝神社」の説明を聞く。村の鎮守で、昔は「山王社」と呼ばれていた。
左の写真の彫刻は、ものつくり大学の調査により発見されたもので「宝暦6年(1756)10月吉日、大工 島村俊実作」との墨書きの記録も確認された。

閻魔堂と長島家の説明を聞く。焔魔堂に隣接する墓地に、製糸工場を開業した長島其吉とその父、甥などの墓がある。焔魔堂は、明治3年に廃寺になった焔魔寺の敷地内にあり、長島家が管理している。

「金乗寺」、新義真言宗智山派の寺で、吉見町御所の息障院末寺。荒川瀬替えにより、寛永9年(1632)に当地に移った。

金乗寺の「筆子碑」、寺子屋で学んでいた教え子が、師匠が死んだ際にその遺徳を偲んで、自分たちで費用を出し合って建てた墓である。特徴的なことは、墓石が、「筆の穂先」のような形をしている。

「宝勝寺」、禅宗曹洞宗の寺で、箕田宝持寺の末寺。寛永2年(1625)の開創、開基は小谷城主の小宮山弾正。

ハクチョウが飛来する「冬水たんぼ」。稲刈後、12月から3月までの間、田んぼに水を張る。平成28年11月に8羽のオオハクチョウが飛来、5年連続で来た。コハクチョウは毎年飛来。

中山道から吉見神宮へ通じる道の入口に、嘉永七年(1854)建立の「吉見御神道」と刻まれた石の道標が立っていたが、いまは三つに折れて置かれている。

北鴻巣駅西口にゴールした参加者の皆様。夏日になってしまったので、暑かったですね。終了後、熱中症で倒れた人が出ましたが、大事に至らず無事に帰宅できました。

この記事を見た人はこんな記事もチェックしています

Menu